神津 善之介 公式サイト

2012年3月


時の流れの速さを、人はそれぞれの生活の中で何かを目印として計っている。

 

ある人は庭の花が咲くことによって1年が経ったことを知り、

またある人は毎年もらう季節の便りで1年という時間経過に想いを馳せる。

私の場合は息子の成長で時の流れを感じ、月齢をちゃんと把握している嫁さんの言葉で、彼が生まれてからもうすぐ1年を迎える事を知る。

同じように、亡くした人を想いながら1年という時を数える人もいるだろう。

 

2011年3月11日からの1年は日本人にとって、1年という月日の区分において、戦後最も重みを感じた年の一つであろうと私は思う。

ほとんどの人が「あれから1年か...」と感じたのではなかろうか?

 

大きな地震はこの東日本大震災だけではない。

日本は地震大国だから何年かに一度は大きな地震で多くの命が失われる。

けれど日本はちゃんとそれを乗り越えて来た。

ただ、今回は地震以上に津波と言う自然の力で多くの命を失い、同時に原発と言う自分たちが作った難題を抱える事にもなった。

 

これらの悲しみは実は別々の事柄だから、それぞれを別にして捉えていかなければならないのだが、地震と共に全 てが起きたため、情報が同時に送られてくることで、被災していない人間は純粋に追悼することと、復興に向けて強い意志を持つこと、そしてこれからの日本に ついて考えていくことのどれもが中途半端になっているように私には感じられる。

 

私だけではなく、全ての日本人は、この3月11日で日本人と言う人種が他の人種では考えられないくらい強い自制心とモラルを持っていたことに気づかされた。

けれど、思っていた以上にこの国が脆い国であることも知らされたと思う。

 

私のような、しがない絵描きがこの3月11日について、偉そうなことをコラムに書くべきではないと思うし、書くほどの意見も持っていないが、日本と海外を行き来する人間として、改めて現代の日本人である自分自身を分析してみたい。

 

私の意見はあくまで私個人の視点でみた私自身への言葉だと思って読んで頂きたい。

ただ、もしかしたら読んで下さる方の中に「私もそうだ」と思う方がいらっしゃるかもしれない。

 

今の日本の脆さ。その理由ははっきりとは解らないが、情報量の多さというのも一つの原因かもしれない。

 

情報を操るというよりも、情報に操られているように見える。

 

インターネットが家庭で使われてもう何年もが経ち、多くの人が一瞬で手軽に膨大な情報を手に入れることができるようになった。

 

昔のように新聞やテレビニュースのみの時代と違い、山ほどあるネットの情報量では情報操作がされづらく、多方面からの意見を得られるようになった事は素晴しい事だ。

 

ただし、それだけ沢山ある情報の信憑性や確実性は、だれもはっきりとは判断できない。

未曾有の事態の場合、今までのデータがないのだから、だれもその意見に正解か不正解かの回答を与えることができない。

 

そしてある仮定の意見が、いつの間にか細胞分裂のように広がり、一人歩きを始める。また新聞とは違い、ネットでは見出しのような短い文章が沢山並ぶので、インパクトのある情報の方が目を引く。

 

自分で文献と向き合って調べたり、当事者に聞いた事であれば、自分の意見を信じ、自己で責任をとることができる。

 

けれど、ネットの場合はほとんどが又聞きのような、他人の情報を浅く理解しただけで、まるで自分がその場に立ち会ったような気分で、その情報を共有してしまう。

それが本当に怖いところだと思う。

 

日本に限らず、今の先進国では物資の多さ、情報の多さがいつの間にか自分たちを苦しめているのかも知れない。

 

また、本当に欲しい情報はそんなに簡単には手に入らないはずだ。

この世の中はそんなに簡単ではない。

今の世の中がものすごく複雑化している事は周知の事実である。

それを簡単に理解するという事はとても難しいことだと私は思う。

 

日本の電化製品やコンピューターを見ると、「簡単操作」や「ワンタッチボタン」なる機能がほとんどのものに付いている。

もしくはニュースを簡単に理解する番組とか、簡単キャッシングとか...。

これは現代人の気質なのかも知れないが、難しい事を難しいままにはせずに、簡単に出来るようなショートカットをしたがる。

 

しかしそのショートカットをした全ての人が、困っている人のために善意で簡単にしてくれている訳ではない。実はそのカットした物の中に人には知られたくない凄く大切な事があったかも知れない。

 

難しい事は難しいのだ。複雑な事は複雑なのだ。

それでも大事な事ならばとことん向き合って、考えて、理解するしかない。

 

 

また話が変わるので申し訳ないが、複雑と言う事でもう一つ言いたいことがある。上の話とすこし矛盾した意見になるかも知れないが...。

外国暮らしが長い私から見て、日本人と言う人種は他の人種と比べて、やはり随分と異質だと思う。

 

日本人はとても繊細で複雑な人種だと思う。

文法や語彙だけ見てもそうだが、それを使いこなす頭の中はもっと複雑怪奇である。

 

文法的に見たら英語もスペイン語も割とシンプルだ。

使い方も簡単だから多くの国の人が共通語として使いこなしている。

そんな彼らを見ていると、奥にしたたかな部分を隠している時もあるが、基本的な性格は自分の感情をストレートに出しているように見える。

 

逆に日本人は相手を思いやる気遣いと、自分が悪く見られたくないという自己防衛的な気持ちの両方が強いからだと私は勝手に思っているのだが、心の中で湧いた感情を色んなフィルターを通してから言葉に表す。

 

もしくは、中から湧いてくるものを外に出す蛇口が幾つもあるかのようでもある。

色んな事を頭の中で考え、想定してから話しだすので、出遅れてしまったり、その想定と違った場合に戸惑ってしまったりする。

 

そんなもともと複雑な頭を持つ日本人が、何を言っても反対意見があり、何をしても別の見方をされる今の日本の中にいると、益々いろんな事を考えすぎて、心の中に湧いた感情を勢いよく出せなくなり、一言の重みと言うか、強さが失われてしまっているように私は感じる。

 

そこが日本の「慎ましさ」や「奥深さ」である事も確かだが、世界基準の中では細かい事を考えすぎて、結局何を言いたいのか解り辛いと思われていることも事実である。

 

例えば、頭の中に湧いた日本語を英語に直すと、日本語の細かな表現が英語では語彙数的にも表現出来ないので、削られてシンプルな言葉になる。

そうするとその言葉が少し強くなるような気がしてくる。

シンプルな表現をする時に削られて失った情報は、受け取る側が頭の中でいろいろなイメージを広げながら受け取ってくれるので、相手が勝手に自分にあった理解の仕方をしてくれる。

だから短いシンプルな言葉の方が多くの相手に思いが届けられるのではないだろうか。

 

昔の力のある日本人の言葉や絵の多くには、作者から発信されている情報はそんなに多くはないが、その代わりに発信されている一つ一つの情報にとても重みがある。まさにそれがシンプルの強さだろうと思う。

 

自分の話をすると、私の絵は世界の中で見るとまだまだ弱い。

でもそれは私だけの事ではなく、今の日本人の絵は総じて弱いと私は思う。

弱い分、繊細で精密な表現が出来ると言う意見もある。それも正しい。

それを武器にして世界で成功している人もいる。

けれど、ほとんどの人はその弱いということにも気づいていない。

 

もうちょっと簡単な話で言うと、歌謡曲がそうだ。

日本のヒット曲を外人に聞かせても「いいね!」と言う人は少ない。

日本のヒット曲を聴いて同感する人はだいたいちょっと変わった人が多い。

詩で言えば、詩の表現などが問題ではなく、詩の中で描かれるシチュエーションが細かすぎる。

そしてより問題なのが、音が軽いことだ。

 

これは私の本業の絵でも言えるのだが、なぜだか日本人が作るものは軽くなるような気がする。

 

ある外人が私に言ったのだが、日本人はものすごく几帳面で真面目なので、音を作る時にサウンド技師が凄く手を入れて細かい仕事をする。

ガラスや石を研磨することに例えるならば、日本人は本当にツルツルに角がなくなるまで研磨する。

その完璧に研磨されたものは人の心を通り過ぎる時にツルツルなのでどこにも引っかからずにスーッと通り過ぎていく。これが心の中に深く入り込める時もあるし、そのまま通過してしまう時もある。

また、ヨーロッパやアメリカの人間の仕事はすこしの角や出っ張りが残った研磨の状態で完成とする。ある意味、雑なのだ。そうすると心を通り過ぎる時に幾つかの引っ掻き傷を残す。スーッと流れていかない。だから心に何かが残る。

それが軽い重いと言う表現になるかは解らないが、それを聞いた時に私は何故か凄く納得がいった。

 

情けない事に私に文章力がないため、支離滅裂にいろいろな話を長々と書いてしまったが、結局何を言いたいのか分からなくなってしまったと思う。

頭の悪い人間が説明するとこうなるというような悪い例になってしまった。

 

私が言いたかった事は、数々の問題を抱える今の日本の中で、私(もしかしたら多くの日本人)がこの時代を生き ていくためには、要らない言葉や情報を間引く力、そして大切でわかりづらい複雑な事を簡単にしようとせず、ちゃんと向き合う姿勢、そして自分の想いをシン プルにする事。それらを実行する強い意志が必要なのだろうと思う。

 

 

最後にまた別の人から聞いた話だが、

アメリカはいろいろなデータによって他国に対して軍事介入や政治介入をしてきたが、一つ大きな誤算をしていることがあるらしい。

それは第二次世界大戦後の日本への軍及び政治への介入と統治の計算データであるという。

日本が戦後15年から30年でこれだけの復興をなし得たのは、日本が特別に変わった国であったためであり、これを「普通」というデータとしては全く使えない事をアメリカが解っていないと言う事なのだそうだ。

だから、日本と同じようになるであろうという目論見で軍事、政治介入しているアラブ諸国やイスラム諸国などが、日本と同じスピードで近代国家になれると計算する事はまったく間違っていると言うのだ。

何よりも復興する力において、日本は特別に優れていたということだ。

 

変わった国、複雑な国、私の生まれた国、日本。

 

3月11日の話に戻るが、

今はなんだか日本の中で人々の想いのエネルギーが色んな方向に向けられていて、結果分散してしまい、前に進めなくなっているように私には見える。

勿論色んな意見はあって当たり前だ。

自分にとって都合の良い意見、会社にとって都合の良い意見、日本にとって都合の良い意見、地球にとって都合の良い意見。

それら複雑な事ととことん向き合い、自分の都合だけではなく、出来ることを少しずつ譲歩し、そぎ落とし、自分が愛する人々が住む日本と言う国がどうなるべきかを真剣に考えたら、日本はもっと凄い国になるんだろうと私は信じている。

 

時は実に勝手に過ぎていく。

でもまだ過ぎていない未来は自分で作ることもできる。

 

3月11日、私にとっては「あの日に起きた」というよりも、「あの日から始まった」と思っている。

 

 

この日にお亡くなりになった方々のご逝去を悼み、ご冥福をお祈りいたします。

 

 

神津善之介

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