神津 善之介 公式サイト

2011年11月


久しぶりにコラムを書いた。
ずっと筆無精をしてしまい、誠に申し訳ない。
今月のコラムは長くなるので、時間に余裕のある時にちょっとずつ読んで頂きたい。

今年3月に震災があって以来、どうも私は文章を書く事に躊躇してしまうようになった。

表紙の挨拶文みたいに短いものならば、どうにか書けるのだが、もう少し長い文章となると、どうもいろいろと考えた末、数行書いたものを自分用のファイルの中に保存だけしてページへの掲載はしなかった。

絵描きとしてはプロとして活動させてもらっているが、私は文章のプロではない。
しかし、そんな私の独り言のようなページを結構な数の方々が読んでいて下さる。
仲間内だけのブログではない、そんなページで何をどう発言して良いのか、正直分からなくなってしまったのだ。

震災直後、私はまだ妻と離れスペインに居た。
妻の出産に合わせ、日本に帰国したのが震災の10日後だった。
日本とスペインでは震災に対する報道にかなりのズレがあった。
スペインから日本の情報を得ようとするとインターネットが主流となり、インターネットでの日本の情報が嘘と本当の両方ともが過多になっていた。
勿論そんな状況だから日本の人々は色んな意味でパニックになっていたと思う。
けれど、帰国してしばらくしすると、テレビではお笑い番組が流れ、同じ日本の中でも場所によってかなりの温度差があるように感じた。
一方では危険だ、危険ではないの論争。一方では経済を回すためなのか、まるで何もなかったかの様な日常。
そんな中、私のページに絵ではなく文章を掲載するにあたり、私はどちらの側にも立ちたくなかった。




音楽は表面的抽象であり、内面的写実だと私は思っている。

どういう意味かと言うと、音楽は絵や文章のように、目の前の現象や考えている考察を写実的に表現することは出来ない。
現実世界の音をそのまま写し取り、演奏するというものはないからだ。
けれど、その曲が持つ感情(悲しい曲か、怒っているのか、喜んでいるのか)は良く分かる。

私たちも幾つもの音楽に、自分の気持ちをシンクロさせ、助けられたことがあると思う。
そう言う意味では視覚的なものよりも、感情を伝える意味で音楽は写実的だと思う。

ただし、誰もがそれを感じ取れる訳ではない。
だから、曲に詩をつけて唄を作るのだ。詩と言う説明書きがあって、その曲の表現したいものがより理解し易くなる。
だからインストロメンタルの曲よりも唄の方が万人受けをする。
多くの人がその音楽の世界に入り易くなるからだろう。

逆に絵は視覚的なものなので、表面的な写実表現ができる。
何が描いてあるかは、具象の絵ならばすぐに分かる。
けれど、逆に何を描いたかがすぐに理解出来る分、それに惑わされてしまい、
作者の意図というか、想いやメッセージなんかに辿り着けない事が多い。
事実、未だにいろんな研究者が過去の画家のメッセージを推測し合っている。

だからと言って詩のような説明書は付けられない。
絵や写真の横に言葉をつけて補足したのでは、ポスターになってしまう。

これら二つの表現方法は文章と違い多くの人々に伝えたい想いをはっきりと分かり易く呈示する事が難しい。
ある特定の観衆だけが作者の紡いだ言葉を理解することができる。

多分音楽や絵には「理解」という脳に直接的に働きかけるものよりも、「感情」というか、心もしくは別の部位のもっと深い部分に想いを届け、訴えかける作用が在るのだろうと私は信じている。

一方文字はもっと直接的な力を持っている。
絵や音楽で人を殺す事は滅多にないが、文章で人を傷つけ、殺すことはできる。

だから、文字を操るプロでない私が、傷ついた人が沢山いるこの時代に、文字で何を訴えて良いのかが分からなくなったのだ。

臆病になったのかもしれない。

でもその分、私は伝えたい想いを絵の具と筆を使って発言しようと思った。
絵描きとしてはまだまだ駆け出しだが、真剣に勉強してきた絵ならば、自分の発言に責任がとれる。

勿論、絵だって何をどう描くか?によってはとても攻撃的なときがある。
けれど私には絵で何かを伝える方が適していると思った。

随分と長い言い訳になってしまったが、これが私がしばらくコラムを書けなかった理由だ。




4月の終わりに南相馬、5月の頭に気仙沼に行った。

とても、ボランティアと呼べる様なことは出来なかったが、南相馬では避難所での手伝い、気仙沼ではお世話になっている方のご家族へ物資を届けることとお見舞いなどに行かせて頂いた。

実際に行く前は「何ができるか分からないが、こんな私でも何かしたい!」という浅はかな正義感と、私の育った 国で起きたこの現実をちゃんと目に焼き付けたいという欲求との、両方の想いから現地に向かったのだが、実際に現地に着くと、自分が何の役にも立てない事を 目の前の現状から知らされた。

行かないよりは行った方が絶対に良い。ニュースと違う現実を知ることができる。
たとえば、あの独特な匂いはテレビでは分からない。
けれど、行ったら何かの役に立てると言う程甘くもない。

ただ、私は遠くに居ながら、知ったように意見をする人間にはなりたくなかったのだ。
まず何よりも、行って自分の思い上がりを学ぶことができた。
黙々と現地で作業する方々の邪魔だけはしないように精一杯気をつけた。
思っている以上に人々は弱っていたが、思っていた以上に強かった。
尊敬させられる事も多かった。

そんな中、あらためてここで何ができるのか?を私なりに考えた。
そして、出した答えが絵を描くと言う事だった。

現地では資料のために何百枚も写真を撮った。
震災から1ヶ月半の悲惨な場所も私のカメラにおさめた。

ちょうど、写真をとっている最中に、私が撮影していた所に家が在ったという被災した方が車で通りかかり、少しお話をさせて頂いた。
その方は淡々とお話をされていたが、ふと車の中を見るとご家族が中に乗ったままだったので「ご家族ですか?」と尋ねたら、「はい。息子も嫁ももうこの景色は見たくないと言って降りたがらないんですよ。」とおっしゃった。

「絵を描く」という自分なりの答えを出したものの、何をどう描くか?を悩みながらカメラを構えて居た私は、その時、私が描く絵はこの悲惨な風景ではないと思った。

私が報道カメラマンンならば、現実を人々に伝える使命がある。
絵描きにも現実を伝える使命はあるが、カメラと違うところは、機械が目の前の現象を光学的無機質に捉えるのと、筆と長い時間を使い、内なる何かを吐き出すために自分の腕を動かす、という点だろう。
現実を事実的情報として捉えるのと、現実をどう解釈して、どういう意味を持って伝えるか?の違いと言うべきであろうか。

この現実を描くにしても、今の私が何かを想って描く絵はもっと違うものだと思った。

ピカソが描いたゲルニカという絵がある。
ゲルニカとはフランコ政権下のスペイン市民戦争の中で、フランコ軍の攻撃によって多くの市民が虐殺された村の名前である。

近代戦争の歴史として、勝った国は正義国となるので、ゲルニカは虐殺をされた被害者にも関わらず、市民戦争に勝ったフランコが正しいとされ、戦争の歴史の中からは消されようとしていた。

でもピカソは描いた。
そしてすでに世界的に有名だったピカソが描いたこの村の名は、フランコが消そうにも世界中の美術愛好家や学生の記憶に残った。
もしこれがいちゲルニカ市民の描いた絵であれば、こんな風に世界の人々に覚えてもらえる様な村の名前にはなっていなかったかもしれない。

現代は沢山のメディアがテレビやネットで恐ろしいほどの情報量を世界に発信しているから、イラクのバグダッドもアフガニスタンのカーブルも福島も、世界の人々の耳に街の名が残るだろう。
けれどアメリカのイラク砲撃の悲惨さを伝えられるピカソの様な芸術家がまだ現れていないので、もしかしたら100年後にあの悲劇は消されるかも知れない。

100年後の人々に伝えられるもの!
絵描きの使命の一つはそう言うものかもしれないと私は思う。

もし私が世界に何かを伝えたいのならば、そのために私はもっと大きな絵描きにならなければいけない。
より多くの人々に見てもらうため、より多くの人の記憶に残してもらうため、絵描きとしてもっともっと力を付けなければならないということだ。

では、今のちっぽけな私が描けるものはないのだろうか?
いや、そうではない。
私にも描ける、描きたいものはあった。

現地に滞在中のある夜明け前、私は気仙沼湾を見渡せられる山に登って、朝陽を見た。
目を凝らしてみると、遠くに被災した黒い町並みが微かに見えるが、朝陽に照らされて輝いている湾は、2ヶ月前と同じであったろうと思えるほどに美しかった。
その時、今の私が描ける絵はこれだ!と体が感じた。
夢中でカメラのシャッターを押し、スケッチ用のノートにその時の色や光りの感じを覚え書きとして書き込んだ。

私は朝陽に照らされる気仙沼を描こうと思った。




デビューして来年で15年。
ここ10年ほど、私の絵は固まって、同じスタイルでいる。
そろそろ新しい、もっと上を目指す絵にしたいと常々思い悩んでいるうちにどんどん時が過ぎた。

自分のスタイルを貫き、そのための技術レベルを磨き上げるという道もある。
また、新たなアプローチでものを捉え、新たな表現方法を見つける事の方が、自分の頭の中にぼんやりと浮かぶ理想像により近づける場合もある。

新しい絵。
自分に正直でなく、思いつきで作った絵では何年も付き合っていく絵にはならない。
ここ何年も実験的な絵を描いているが、今のところ満足出来るものは描けていない。

新しい絵を見つけ出すと言ったってまったく簡単にはいかない。
また、今までの絵を壊さなければ、前に進めないことも分かっている。

人間が持っている業というのか、気質というのか、体臭というのか、そう言うものは簡単には消せない。良いものも悪いものもなかなか変われない。
だから、新たなものに挑戦して、今の絵を壊したとしても、過去の自分がなくなる訳ではないし、私が持っている良い匂いも悪い臭いも新しい絵の中に残る。
いくら身体を洗っても、中から出てくる体臭が消せないのと同じ様なものだ。

そこまでは分かっているのだ。
だから、一生懸命に今の絵を壊そうと思っているのだが、どうも自分が弱いので、今まで身につけてきた癖と言うか、絵のプロセスから抜け出せない。

そんな風に新たな絵が生み出せないで悩んでいる時に、今年の震災があった。
そして子供も産まれた。
自分が次のステップに踏み出す時にきていると回りからも知らされているように感じた。

しかし、簡単には新しい絵が産まれてはくれない。
今年は世界的に見ても、自分自身や身の回りの事を真剣に考えさせられる年だった。
私もあらためてもう一度、自分を見つめ直した。
この19年、絵で歩んできた道を振り返ってみた。

そこで一つ分かった事。
光と影の国スペインに暮らす私がこの19年間、少しずつ変わった絵のスタイルの中で唯一変わらなかった事は、常にキャンバスの中に光を求めていたと言う事だ。

そして私は思った。
新しい絵を見つけ出す前に、この19年間のテクニックにしても想いにしても、今までの自分を全て吐き出してやろうと。

だから今年の個展では、「光」をテーマにして、今までの自分を全部出しきれるような絵を描きたいと思った。
今までの自分を全て出しきらないと、新たなステップに踏み出せないと身体が言ってるように感じたのだ。

今年、コラムをほとんど書けなかった分、私は自分が伝えたかったことはキャンバスにぶつけた。

まだ私の絵は微かな光しか放てていない。いや、光すら発していないかも知れない。
ただ、今が夜明け前だとしたら朝は必ず来る。
そう信じて、草木に朝露が溜まるように、私は努力と希望を溜めて朝陽を待とうと思う。

時代という雄鶏は、もう少しで朝がくることを知らせているのだ。

 

 

神津善之介

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