5月も半ばを過ぎ、この暗いアトリエにも光が入るようになった。
木々の葉は5月の光線を美しい黄緑色に透過させ、また青く反射する。
風は喜びや微笑みを引き連れて穏やかに流れる。
この季節の中ではただの挨拶や交わす言葉でさえ、歌に聞こえてくるようだ。

そんな幸せな空気が流れるマドリードに、野良犬も避ける程のマイナスオーラを全面
に纏った1人の男がびっこを引きながら薬屋に鎮痛スプレーを買いに行く。
そう、僕だ。

緑が美しい季節になったので、そろそろ今年もスケッチでも始めるか。
ついでにこの腹も出て老い然らばえた肉体を鍛える為にもスケッチのロケハンがてら、
公園にランニングに行こう。

そんな思いで絵の合間にジョギングを始めて3日目、何にも捻挫した自覚が無いのに、
帰り道に足がどんどん痛くなってきた。
翌日には自分が描いてるサイの足のように、足首が無くなる程腫れてきた。
いくら中年とは言え、たかがジョギングくらいで足を傷めるかね?

何とも自分が情けない。
とうとうこんなに老いてしまったのかと愕然となる。
そのうえたかが捻挫だが結構痛い。
なので、どんなに季節が良くなろうが、自宅療養中なのだ。
スケッチだってできやしない。

「くそぉー」と思いながら、昨年こっちの病院に行った時の事まで思い出した。

その時は明け方に目眩と嘔吐とゲリで頭が朦朧となり、タクシーを呼び、這いながら
病院に駆け込んだ。
僕はこの発作の原因を前の晩に食べたキムチの白菜だと思っていた。
嫁が中国食材店で買ってきたヤツだから、「きっと残留農薬かなんかでやられたんだ!
あぁ死ぬな」と覚悟を決めた。

すると診察を終えた医師が表情一つ変えずに、
「まず旦那さん、こりゃぁ、ただの食あたりだね。虚弱体質。寝不足か何かで免疫が
落ちてるとこに刺激物が胃にきたんでしょ。大したこたぁない。3日間、消化の良い
もの食べて、水飲んで寝てなさい。」

「それと隣の方、奥さん?あんたはもしできるならば、旦那さんを代えた方が良いね。
この虚弱男は使い物にならないよ。 ハイ以上!」

と、こんな感じだった。
僕は二度とあんな病院には行くものか!と強く思った。
だから今回だって病院には行かず、薬で頑張るのだ。

マドリードに住んでいるほぼ全ての人々が初夏の幸せを感じあっている中、
眉間に皺を寄せ、人々をを睨みながら「このスプレーは効かないぞ!」と今日も店に
クレームをつけるため、未だ冬から抜けだせない僕はびっこを引きながら薬屋へと向
かうのだ!

さて最後に、今描いている絵の話しをさせてもらう。

この描いているサイの絵は非常に大きい。
サイのサイズ(シャレでは無い)はほぼ実物大。
作品フォルダーの中にある「(習作)孤独:サイ2」という正面を向いている方の絵
を大きいキャンバスで描いている。

大きな絵を描く時は、最初から特別に大作用に練っていたテーマでない限りは、大抵
まず習作を描く。
頭の中で大作に向いているテーマだと思っていても、いざ実際に手を動かしてみると
「あれ?違うな」と思う時がある。
今回のように描きたいテーマが幾つもあって、そこから選ぶ時なんかも実際に描いて
みると良く解る。
絵は最後まで手を動かして完成するものだから、頭の中だけで組み立てても、同じよ
うには進んでくれない。
また、小さい絵では省略が利くところでも、大きなサイズとなるとそこに正確な見解
を持っていなくてはならない。
理解したうえでの省略ならば良いが、理解していないで省略すると、やはりそこの不
自然さが目立ってくるのだ。

とはいえ、大きなキャンバスに絵を描くというのは凄く楽しい。
距離を持って見ないと全体像が把握できないので、一筆おく度に何歩も下がって絵を
見る。ベラスケスは絵から50歩下がって見ていたと言うが、この家だったら外の道
路に出てしまう。また筆を持つ手も大きく動かすので、なんだか心も自由になれる。

ただ、僕の絵の描き方だと大きな絵はやはり時間を物凄く費やすので、年に数枚しか
描けない。大体は10号程のキャンバスに描く。
小さなキャンバスにでも、これくらいの大きさを感じさせられる絵が描けたらどんな
に素晴らしいだろうと思う。

まぁ、そんな訳で幾つか描いた習作の中から「サイ」の絵を選び、描き始めたのだが、
さて、このサイ、顔も身体は物凄く大きいのに、目はとても小さい。
描いている時間も長いから情も湧くし、この顔を見ているとどうも他人には思えなく
なってくる。
そんな我がサイは心配そうな目で、びっこを引く僕を見てくれている。

捻挫が治るまで、もう少しこの相棒との語らいが続くことになるだろう。

 

神津善之介