またも7月分のコラムをサボってしまった。
私は本当に筆無精なので、ブログなんかを毎日アップ出来る人を心から尊敬する。

特に最近の私は自分の絵を少しでも前に進めたいと思っていて、実験的な絵を描いている。
日々、子育てとその試みに大半の時間を割いていて、気がつくと夜も終わり、空が少し明るくなっている。
そんな理由でコラムも人々から頂くメールの返事も、大変無礼だと承知していながらなかなか筆が進まない。

今月のコラムは悲しいニュースについて書く。

悲しい事とは、先日初めてのぎっくり腰になったことではなく、私の師匠であるホアキン トレンツ リャド氏の美術館が閉館した事についてである。

私は先日このニュースを聞いたところなのだが、どうやら今年の5,6月に起きていたらしい。本当に驚いた。

私は2、3年に1度は美術館を訪れ、師匠の作品を眺めながら何かを学んだり、これからの自分の絵の事を考えたり、思い出に慕ったりするのが心の拠り所の一つだったのに、もうそれが出来なくなってしまった。

理由はやはり政府の財政破綻だそうだ。
スペインの財政破綻はもう充分ご承知と思うが、バレアレス諸島州政府もかなり深刻な財政難に陥っており、文化芸術への大幅な資金援助削減が決まり、リャド美術館のような小さな美術館は真っ先に資金援助廃止の的になってしまった。
美術館にしていた邸宅はリャドの家族の持ち物なのだが、娘一人と数人のスタッフでやってきた美術館事業は資金援助なしでは維持できないとの事で、リャド美 術館をやめ、ドイツ人のピカソかダリのコレクターに邸宅を貸し、今はピカソ版画美術館として生まれ変わり、残された家族はその家賃収入で生きていくことを 選んだのだそうだ。
非常に残念である。

私の師匠ホアキン トレンツ リャドは18年前に死んだ。
けれど、美術館があったから、彼の面影は絵と重なり、いつでも会える存在だった。
しかし、それももう出来なくなってしまった。

師匠との思い出について少し書こうと思う。

彼は絵描きである以前に、人として魅力に溢れていた。
「ダンディー」と言う言葉を存在全てで表しているような人だった。

ほとんどの絵描きは基本的にナルシストだから、彼の自画像も理想像として描き上げているし、写真も随分と角度を考えて撮っているから、絵や写真で見ると、えらく男前に見えるが、実際の彼は背の高い、腹がとびだした出っ歯のおじさんだった。

でもそれを覆い隠すくらい、男としての色気があった。
絵を愛し、オペラを愛し、女性を愛した人だった。
3度の結婚離婚を繰り返す、私には到底なれないような豪快な男だった。
絵と同じく、激しくそして繊細で、常に強い光のような何かを求めている人だった。
あの絵はそんな彼だから描けた絵なのだと思う。

彼と一緒にいた時分の私はまだスペイン語が覚束なくて、彼の発する言葉がちゃんと理解できなかった。
彼は絵の授業の前にいつも15分ほど、生徒に向けて話をした。
彼の言葉をもっと聞きたかった。それが今でも心残りである。

授業中、言葉が良く分からない私は身体全体で彼にぶつかった。
いくらぶつかっても彼はびくともせず、厳しい顔でやり返された。(彼は女ったらしだったので、男の私には厳しかった)
また、体中にキツい香水を沢山振りまいていたので、彼の匂いがするとそこに彼が居なくても私はそれだけで緊張した。
いつも厳しく怖かった。その当時の私はそれが生徒への愛だとは気付かなかった。

そんな彼を間近で見て、「いつか師匠よりスゲー絵を描いてやる」と私は心に誓い、盗める技術は盗める限り盗んだ。

幸せな事に日本で彼を扱う画商を知っていたので、彼のアトリエに何度も行かせてもらった。
彼が画廊の人間と商談をしている隙に、彼の目を盗んで、学校では教わらない、実際に彼が使っている絵の具の種類や油なんかもスパイのように急いでメモをとった。
しかしそれが見つかり、叱られると思いきや、彼は全てお見通しだと言うようなニヤニヤした顔で、口に指を当て内緒だぞと言う仕草をしながら、肖像画を描く時に使う、その当時の私は知りもしなかった扇型の筆をくれた。
多分その時の商談が彼にとってもの凄く良いものだったのだろう。初めて見たと言うくらいの無邪気な笑顔を私に見せた。
私が見た彼の笑顔はそれが最初で最後だったかもしれない。

彼の学校に入り、1年近く経った頃、私は彼に似たような絵だが、まったく迫力のないつまらない絵が描けるようになった。
私が彼から本当に盗まなければいけなかったものはそんなものではなかったのだろう。

彼が死んで、彼の学校を辞め、マヨルカ島を離れ、リャドの弟子と一目で分かるような自分の絵に辟易し、同じ具象絵画でもなるべく違う新しいスタイルを求めた。
彼の絵を全否定していた時期もあった。つまらない絵しか描けない私はそう思わないことには前に進めないと思っていた。

あれから随分と時が経ち、未だにへたくそな絵を描いてはいるが、少しは自分らしい絵が描けるようになった。
描く人間が違えば描く絵も違う。そんな当たり前の事に気付くのにえらく時間がかかった。
彼のような力強い絵は私には描けない。だから私は静かで穏やかな絵を描こうと思った。
最近少しずつ自分の絵というものが見えてきたからなのか、散々彼から離れようと思っていたくせに、今は彼の強い絵が懐かしい。

そんな彼の絵が見れなくなることはもの凄く寂しいことだ。
もしかしたら彼が死んだ事よりも悲しいかもしれない。
私は心のどこかで、彼は絵の中で生き続けていると思っている。

マヨルカの大聖堂で行われた盛大な葬式の前日、私は彼の遺体が安置してあるところにこっそりと入らせてもらった。
眠ったような彼の顔の閉じた口からは歯だけが出ていて、私は「師匠、出っ歯がしまえてないよ」と軽口をたたきながら泣いた。
そして彼の遺体を前にして、もらった扇形の筆を握りしめ彼に誓った。
「どんなことがあっても僕は絵を描き続ける」と。

もうあれから18年が過ぎた。
あの頃学校に居た生徒達のほとんどが夢を諦めたが、私は今のところ約束通りどうにかまだ絵を描いている。
たまにあの日の事を思い返す。
棺に寝ていた彼のあの白い歯は青臭い若者の情熱をあざ笑っていたのかもしれないと。

 

敬愛する師 Joaquin Torrents LLado 氏へ

 

 

神津善之介