2008年に入って最初のコラム。
というよりも昨年の10月からコラムを書いていないのだ。
まったく酷いもんだ。
こんなホームページのコラムを読んでくれる優しい人々に、
神からの御加護があるようにと心から祈る。

マドリードの今年の冬はあまり寒い気がしない。
2月に入ってからが本当の寒さだと言う人もいるが、
昨年の方が寒かった気がする。

最近はなるだけ毎日散歩をする。
散歩をすると頭の中が整理される。
絵の師匠に付いていた頃は、バスで通っていたので、
バスの中の1時間ほどの何もできない時間、
それが頭を整理する良い助けになっていた。

今はただただ自分一人でアトリエで作業しているから、
敢えて自分から外に出ないと、ただの引きこもりになってしまう。
それにアトリエではなんだかんだとすることがあるため、
考え事がしづらいのだ。

・・・と、書いていて35歳の文章ではない気がしてくるのだが・・・
まぁ話を戻す。

芸術と呼ばれるものはどれも同じだと思うが、
絵の場合、習い初めはただ自分の好きな絵を真似たり、
アカデミズムの基礎をとことん勉強する。
そのうち自分の描きたい絵、自分にしか描けない絵を求め出す。
そうすると、それまで技術的な悩みが多かったのに、
精神的な悩みの方が、多くの割合を占めるようになる。

また情報や技術も増えれば増えるだけ、それをいつどのように使えば、
より自分の表現にとって効果的か?という統制力も必要になってくる。

「描いたら描いただけ技術が上がる」というのは一つの事実だと思う。
けれど、自分の描きたい絵、自分にしか描けない絵を見つける事は、
ただ描くだけでは無理なのではないか思う。

惚れ込んだ画家に師事するためにスペインに渡ろうと決意した僕に父は
「その人の技術だけを学ぶなよ。精神を学べ。物を作る真中には精神が必要なんだ」
と言った。
今になって、その言葉が響いてくる。技術だけでは限界があると...

その上、僕はけして技術のある絵描きではない。
だからこそ「描きたい何か」が必要なのだと思う。

 

悩みだした時は散歩に限る。
旅でも良い。

散歩に出ると自分の考えでは及ばない現象に出会い、景色を見る。
そんな時にヒントが落ちていたりするし、
歩くリズムと振動によって、まるで紙袋に詰まった中身が、
床や机にトントンとされて勝手に動き隙間を埋めて整っていくように、
頭の中身も整理されるような気がするのだ。

その散歩でヒントを見つけたり、日常のモノから何かを学んだりするには、
感受性とその振動の共鳴度合いによると僕は考えている。

雲や石ころを見て何かを学ぶこともあれば、
偉い学者さんの言葉に何も感じないこともある。
きっと感受性の周波数がその現象と共鳴した時に、何かを感じるのだろう。

また、旅に出る時も、僕はその地で絵描きとは無縁の人と話をする。
そこにもヒントが落ちている事が多いからだ。

例えば、トルコでは考古学者の博士と土を触りながら、
ブラジルではジャングルで働く植物学者とアマゾンを歩きながら、
キューバでは葉巻き職人のじいさんが枯れ草を丸める横で、
モロッコではカスバで暮らす少年とボロボロのボールを蹴りあいながら、
そして日本に帰れば因島で一人で暮らす95歳の義理のじいちゃんと猫と縁側で。

内容は別に何ということのない、ただの話をする。
そして彼等から言葉だけではなく、彼等の持つ空気や色から、
言葉で表せないヒントや答えをもらう。
それがたとえ、直接絵に影響しないとしても、僕は一つ栄養を得たように感じる。

 

そう言えば、絵を描く事は散歩に似ている。

目的があるようではっきりとはしていない。
目的地への向かうためだけだったら、それは移動だ。
散歩は止まってみたり、寄り道をしたり、別の所に着いてみたりする。
でもきっと何かを求めて外に出るのだ。
それは白いキャンバスに筆を入れる時のように。

さてと、随分と長い言い訳になったが、今日も絵を描かずに、散歩に出かけよう。
そういや、ここのところ散歩ばかりだな。

                                                                       
神津善之介