昨年末からマドリードの家には居候が居る。
僕に全く懐かない雌猫だ。
名はチャタという。

こいつはこっちで大変世話になっている友達夫婦が飼っている猫なのだが、彼等が年末年始を日本で過ごすため、12月半ばから1月いっぱいまで預かることになっている。

今僕はマドリードで一人暮らしをしている。
預かった最初の頃に1泊だけこいつを一匹にして出かけたことがあった。
家に帰ると猫用の便器からはみ出たウンチが床にゴロゴロと嫌がらせのように転がっていて、僕の顔を見るなり「お帰り」の代わりに「シャーっ」と牙を剥かれた。

なぜだろう?数年前、生まれてすぐのこいつをウチで預かっていた時は随分と甘ったれで僕に凄く懐いていたはずだ。
今では目が合うと『シャーッ」と牙を見せ威嚇してくる始末。
可愛かったあの頃が嘘のように思える。

きっと僕に子供ができたら、さんざん可愛がった末「親父、臭ぇーんだけどぉー!」と言われ、このチャタとの関係同様に傷つくのだろう。

さて、チャタはよく食べる。
そして食べてる時以外はなんだか不機嫌そうな顔をしている。
たまに僕の方を見て口を開けば「何か寄越せ」という目で鳴く。
そこでオヤツを与えながらついでに身体を触ろうものなら牙を見せてもの凄く怒る。

なんて現金なヤツだ!

「貢ぐだけ貢がせておいて、体には触らせないって言うのか!」と、キャバ嬢にハマったダメな中年のごとく僕は怒ったりしている。
しつこい僕はそれでも無理矢理チャタに触るので、案の定引っ掻かれ、今では手が傷だらけになっている。

と言うことで、終始不機嫌そうなこの猫との生活が始まった。

ただ、このチャタのおかげで一人暮らしのはずが、今日本に居る嫁の姿と重り、寂しいどころか、一人暮らしを謳歌することも出来ていないし、絵に集中できているのかもよく分からない状態だ。

今、僕は自分の絵のレベルアップのため、ない頭を絞って悩んでいる。

技術的に上手く描けることが目標ならば、その目標の達成はわりと簡単だろうと思う。
けれど、絵とはそれだけではないと僕は考えている。

例えばプラド美術館に行けば、過去の素晴らしい画家達の絵が沢山ある。その中には超絶的な技巧で凄く上手に描かれている絵も沢山ある。
けれど、目を惹き、心奪われる作品は決して上手い絵というわけではない。
良い絵というものには、絵の中に表面的な技術以上の何かがあるのだ。
それを見つける旅はまだまだ先が長い。

昔、絵描きを例えて、「地面でホウキを振って星を取ろうとするのがアマチュアの絵描きで、屋根に登ってホウキを振るのがプロの絵描きだ」と言われたことがある。

自分自身、歩いてきた路を振り返って見ると、少しは進めたように思えても、先を見ると目標が遠すぎて霞んで見えなくなっていることに恐くなることがある。
それどころか歩いている方向が合っているのかさえも分からない時の方が多い。

ただ一つ。
描きたいと思う限り、歩くことができる。
それだけが今の真実である。

また、そのためには幼児性というものも必要な物の一つだと、僕は信じている。
前にも書いたことがあるが、画家というものは基本的に幼児性が強い。
というか、幼児性こそが絵を描く原動力になっているのではないかと僕は思っている。

最近は画家という生き方を、職業的な考えで捉える人々も出始めているが、別の仕事にも就かずに、貧乏絵描きをやり続ける人間は、少し頭が弱いか、現実的な考えよりも幼児的な衝動の方が強い人間なのだと思う。

そんな考えで19年絵描きを続けてきたが、最近では周りの日本人の絵描き達を見回すと、わりとしっかりと現実的な考えを持って制作活動をしているように見え、僕は愕然とする。

極端な話、明日死ぬかもしれないんだから、今日最高の絵を描くことだけを考えて生きてみても良いんじゃないのか?と思ったりするのだが、まわりの40近いおっさん達はだれも共鳴してくれない。

なぜだろう。僕だけ成長が止まっているのだろうか。
今の僕では絵描きとしても人としても成長が出来ないのであろうか?

日々、絵だけを描いて生きている僕は、絵について悩む時間は人よりもあるだろう。
では何が足りない?
もっと深く考えなければいけないのか?
物の見方が悪いのか?
もしくは何か環境を変えてみるべきなのか?!
悩みは尽きない...

そう。もの作りの悩みは...うにゃにゃびゃやをうおー!

自分の世界から現実に引きずり戻されるのは普段は嫁の仕業なのだが、今日の場合は僕の膝の上で腹が減ったと訴えるチャタの仕業である。

そんなチャタとの生活も気がつけば、もう1ヶ月が経った。

いつの間にか、僕が椅子に座れば、膝に乗り顔を押し付けぐるぐる甘えるようになった。
僕が外から家に戻れば、にゃーにゃー言いながら玄関まで出迎えてくれる。
体も許す関係にまでなった。

いまではこんなヤツを可愛いと思っている。

嫁は「あんな嫌いなヨシに甘えなければならないほど、チャタは切羽詰まっているんだ。可哀想に!」と嘆く。

僕はこの1ヶ月間飯を与えトイレ掃除したからチャタは懐いているだけだろうと思っている。
だから、お世話係の僕がいくら悩んでいようがお構いなしで、どれだけ世話をしようと、こいつは自分のしたいことばかりを訴える。

猫なんて所詮そんなものだ。

分かっている。そんなことは充分にわかっている。 のだが...

今では...
寒い冬の夜、一人寝のベッドに潜り込んでくるこの猫の背中をなでながら、もうすぐ来るこいつとの別れの日を思い、悲しくなる寂しき中年がここに居る。

おぉチャタよ! 愛しのチャタよ。

注)鏡餅ではありません。

 

神津善之介